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渡さん、1度はライブに行きたかった。生で歌声をお聴きしたかった。
高田渡の音楽の中心は物語やメッセージではなくて正に音楽性だと思います。1970年前後のフォークには確かにメッセージだけのようなものもありますが、高田渡のサウンドが普遍的なのは音楽性が優れていたからだと思います。声やギターの呼吸。間。サウンド。特有の音の響き。なので真似などできません。ジャンルで括れない音響的な間があります。
お国が認めなくても、やっぱり(人間国宝)でしたね
誠に寂しい時代になりました!
渡さんが亡くなってもう18年ですね。中津川の後に地元の公会堂に来てくれました。一緒に来ていた加川良さんや岩井宏さんも亡くなって私の青春も遠くなってしまいます。
岸田に聞かせたい
岸田に聞かせたい!まさにこれが日本の宝だ!
71年は安保の敗北により一部の過激派の学生運動にも愛想を尽かした若者はメッセージ性の強い岡林らを拒否した節目の年です。71年中津川は時代を読めない連中が騒ぎ立てました。すでに若者は社会より自分の半径2m以内の幸せだけしか興味ない時代に移行していました。吉田拓郎はその象徴です。彼にとって中津川もフォークもボブ・ディランでさえ世の中に出る手段でしかありませんでした
その当時の大人には、字余りソングは歌に聞こえなかったんじゃないかな。
1971年には、人によって受け取り方がかなり違うと思います。十人十色!
私もほぼ同時代人間です。教育学部でした。教養英語の集りが、クラスとして一応の単位です。その中に、活動に熱心なのは5/50位。本当に熱心なのは、5人以下。当時も、無関心か政治立場を示さない、教育学部のせいがあるとしても。当時、正門近くの学生会館、事務室もあったような、?の階段には、まだ激しい攻防の傷跡がありました。1970年を、すでに1〜2年過ぎた頃の話しです。学内、庭ではミニ集会?演説する者がありましたが、内輪だけ。ほとんどは、横目に通り過ぎるだけ。それから数年後、独り市川市の路上で、鉄パイプでめった打ちされ、死んだ友人がいました。彼が、26歳の時。新聞で知りました。彼はギターが上手くて、ビートルズの曲など弾き語りしてくれたした。時には日本語訳で、♫みんなの知ってる黄色い潜水艦、黄色い潜水艦、、。教養課程時代は。一番の親友だと、思っていました。今も、思っています。私も慢性疾患を持ち高齢でもあり、ほんとに極楽浄土があったなら、一番先に彼に会いに行きたい。極楽が無理なら、せめて冥土とやらで。
西岡たかしさんの歌に、白湯さゆ、がある。詩の中に、ミシシッピジョンハートが好きだった、とある。
こういうのは音楽としては退化してると思う。左巻きの映画も映画も映画としては退化してる。
言葉の意味、イメージは各人各様。音楽もしかり。その人にとっての、楽しい音。が、他人に楽しい保証はありません。つまる所、それぞれの好き嫌い。ですから、いわゆる音楽とやらを数直線上にならべる事が無理だし、比べて進歩だ退歩だと判定するのは出来ないと思います。
最近において、右や左というイデオロギー的な実態は皆無ではないでしょうか。そんな極端な映画を作っても誰も見ないから、大赤字。そんな映画が探せばあるかも知れないが、仲間内のカンパでしか成立しないと思います。既に右左の時代は過ぎ去って、上下の格差拡大。生存が怪しくなった時代ではないか。アメリカの様に。自由競走や改革を唱える民主党を左巻きとは言わない。昔の古き良き時代への回帰、トランプ共和の方がむしろかつての左巻き傾向ではないか?
日本ではファッション反権力は昔からバカを相手のかたい商売です
右巻き左巻きは失礼すぎる 何様かと思う
批評は時に愚者の祭典と化す。
渡さん、1度はライブに行きたかった。生で歌声をお聴きしたかった。
高田渡の音楽の中心は物語やメッセージではなくて正に音楽性だと思います。1970年前後のフォークには確かにメッセージだけのようなものもありますが、高田渡のサウンドが普遍的なのは音楽性が優れていたからだと思います。声やギターの呼吸。間。サウンド。特有の音の響き。なので真似などできません。ジャンルで括れない音響的な間があります。
お国が認めなくても、やっぱり(人間国宝)でしたね
誠に寂しい時代になりました!
渡さんが亡くなってもう18年ですね。
中津川の後に地元の公会堂に来てくれました。
一緒に来ていた加川良さんや岩井宏さんも亡くなって私の青春も遠くなってしまいます。
岸田に聞かせたい
岸田に聞かせたい!まさにこれが日本の宝だ!
71年は安保の敗北により一部の過激派の学生運動にも愛想を尽かした若者はメッセージ性の強い岡林らを拒否した節目の年です。71年中津川は時代を読めない連中が騒ぎ立てました。すでに若者は社会より自分の半径2m以内の幸せだけしか興味ない時代に移行していました。吉田拓郎はその象徴です。彼にとって中津川もフォークもボブ・ディランでさえ世の中に出る手段でしかありませんでした
その当時の大人には、字余りソングは歌に聞こえなかったんじゃないかな。
1971年には、人によって受け取り方がかなり違うと思います。十人十色!
私もほぼ同時代人間です。教育学部でした。教養英語の集りが、クラスとして一応の単位です。その中に、活動に熱心なのは5/50位。本当に熱心なのは、5人以下。当時も、無関心か政治立場を示さない、教育学部のせいがあるとしても。
当時、正門近くの学生会館、事務室もあったような、?
の階段には、まだ激しい攻防の傷跡がありました。1970年を、すでに1〜2年過ぎた頃の話しです。
学内、庭ではミニ集会?演説する者がありましたが、内輪だけ。ほとんどは、横目に通り過ぎるだけ。
それから数年後、独り市川市の路上で、鉄パイプでめった打ちされ、死んだ友人がいました。
彼が、26歳の時。新聞で知りました。彼はギターが上手くて、ビートルズの曲など弾き語りしてくれたした。
時には日本語訳で、♫みんなの知ってる黄色い潜水艦、黄色い潜水艦、、。教養課程時代は。一番の親友だと、思っていました。今も、思っています。
私も慢性疾患を持ち高齢でもあり、ほんとに極楽浄土があったなら、一番先に彼に会いに行きたい。極楽が無理なら、せめて冥土とやらで。
西岡たかしさんの歌に、
白湯さゆ、がある。詩の中に、ミシシッピジョンハートが好きだった、とある。
こういうのは音楽としては退化してると思う。左巻きの映画も映画も映画としては退化してる。
言葉の意味、イメージは各人各様。音楽もしかり。その人にとっての、楽しい音。が、他人に楽しい保証はありません。つまる所、それぞれの好き嫌い。ですから、いわゆる音楽とやらを数直線上にならべる事が無理だし、比べて進歩だ退歩だと判定するのは出来ないと思います。
最近において、右や左というイデオロギー的な実態は皆無ではないでしょうか。そんな極端な映画を作っても誰も見ないから、大赤字。そんな映画が探せばあるかも知れないが、仲間内のカンパでしか成立しないと思います。
既に右左の時代は過ぎ去って、上下の格差拡大。生存が怪しくなった時代ではないか。アメリカの様に。
自由競走や改革を唱える民主党を左巻きとは言わない。
昔の古き良き時代への回帰、トランプ共和の方がむしろかつての左巻き傾向ではないか?
日本ではファッション反権力は昔からバカを相手のかたい商売です
右巻き左巻きは失礼すぎる 何様かと思う
批評は時に愚者の祭典と化す。